アンチピリンの経哲日記

経済学、哲学の他、文学、旅行、日々雑感もあります。

「心的現象論序説」 吉本隆明著(その8)

8 吉本隆明の心像概念

 吉本は任意な話題として、言語・夢・心像を取りあげているのではなく、それらには内的繋がりがある。まず言語を概念と規範によって捉え、夢を入眠言語の一つとして捉えている。さらに心像は、原夢・固有夢・一般夢の中の固有夢(正夢)に対応するものとしている。

 それにしても吉本は「心像」を取りあげることで、何を語ろうとしていたのであろうか?

 思うに吉本は「心像」を通して哲学それ自体の発生論を企てているのである。この際、サルトルの想像力との違いなど細かな議論は抜きにして、吉本のモチーフを大づかみに捉えてみよう。私はサルトルがなぜ想像力を論じたのが動機がさっぱり分からないが、吉本の動機は分かるつもりだ。

 吉本は人類の太古の昔において「見えないもの」と「見えるもの」との関係が意識を生み出したとしている。つまり原生的疎外と純粋疎外の差異が関係意識である。そのとき「見えない」世界は神の世界とされ、「見えるもの」として神話的世界に置き換えられたのである。そのような置き換えが生じたのは、非-表象を非-表象のままにしておくことが不安だからである。人類は関係意識が生じたときから、常に「見えない」世界の不安に追い立てられてきたのだ。したがって神話的思考の後で、その代替として哲学が発生したのである。「見えない」世界は脱神話化された現代においても非-表象の構造・無意識として捉えられている。それは神の世界の代替でもあるが、合理的であるがゆえに、「見える」世界もまた切迫した不安から免れ、それなりに安定しているのである。

 「心像」はそうした文脈の中に位置づけられる。吉本は「心像」もまた自己抽象の「見えない」世界の不安から逃れるために、それを疑似視覚像に置き換えたものとしている。そういう意味で吉本は「心像」をプリミティブな病理としている。吉本の心像概念は、過去の記憶の像でもなければ、サルトルのように無を背景としているのでもない。逆に「見えない」概念を背景にして浮かびあがるのであり、たとえ像としてぼやけていても、その像のもつ意味は本人がいちばんよく知っているのである。

 例えば友人の像を思い浮かべたとしても、それは過去の記憶とは無関係であり、その友人と自分との現実の諸関係を概念として探求することを回避して、擬似的視覚に置き換えているに過ぎないというわけである。いわば豊かな心的世界を貧しい一次的な視覚像にムリヤリ置き換えているのである。

 吉本の心像概念を突き詰めると、過去の記憶が美しいのは、現実の豊かな諸関係を思考せずに、疑似視覚像に逃れていることの安心感であるに過ぎないということになる。そのことを吉本は自己の体験に基づいて詳細に分析している。私は吉本の心像概念の方が、サルトルのそれよりも使える概念だと思う。吉本は何らかの説を伝授しているのではなく、自分とともに考えよ、と促しているからである。

 そして「心像」は様々な精神病理とつながっている。つまり覚醒時と睡眠時の心的領域は覚醒言語と入眠言語の並行として捉えられ、固有夢が入眠言語の不全であるように、心像も覚醒言語の不全と位置づけられている。

 吉本のいう「引き寄せ」とは、この覚醒言語の不全に相当すると思われる。すなわち時間性として了解すべき事柄を空間性として歪めて捉えているのである。

 この「引き寄せ」は様々なパターンがあり、精神病理の症例がそれによって分類されている。精神病理として「非現実」の世界の責任を負うのが対象の不可知性である場合が、<考想察知><幻聴>であり、関係それ自体である場合が<幻覚><妄想>である。そして主体の意志にある場合が<心像>となるのである。<心像>が想像力としてあたかも主体の能力であるようにみなされるのはそのためである。このことから、吉本は精神病理こそが普遍的な心的世界であり、正常者の<心像>はその特殊例であると位置づけていることが分かる。もちろんこれは相当端折った要約であり、吉本の説明はもっと複雑かつ精妙であることは言うまでもない。

 

<補記>

 私は本書がどういう点で驚くべきものであるか、そこで示されているアイデアとは何か?という視点で読んだ。それが説得的であったどうかは私の関知するところではない。別に吉本に義理立てすることはあるまい。本書を難解かつ曖昧だとして放り捨てるのも自由だし、執念深く意味を読み取ろうとするのも自由である。

 問題は、吉本がなぜ通説とは異なった諸概念を新たに創造したのか、どんな事柄を解決するためにそうした諸概念を必要としたのか、これである。それは本書には直接書いていないことだから、自分なりに推測してみるしかない。

 私見では、おそらく吉本は、たとえいかなる人間であろうとも、正常、異常を問わず、人間である限り、その心的世界は尊重されるべきであり、豊かな世界として自立していることを肯定するために新たな諸概念を創出したのだと思う。

 それを言うのは容易なことだが、実際に行うとなると綺麗事ではすまされない。理論的には価値中立的だが、社会的に危害を及ぼす精神異常者の心的世界まで自立したものとして肯定するとなると話は別である。公共世界でマイノリティを本気で擁護することは、一箇のスキャンダルになりうるのだ。それは吉本自身が身をもって示したことである。だが、私はそこに評論家の新しいスタイルと運命を見る。評論家は自らスキャンダルになる覚悟がなければ、何ら積極的なことを言ったことにはならないのだ。安全な場所に立って万人が納得し賞賛するようなことを際限もなく垂れ流すことは、やりたい人がやればいい。吉本はあえて困難な運命を選んだのである。それを倫理的に非難することは容易だが、吉本の倫理観は個人心理には還元されえない点で親鸞と同じである。非難されることを含めて吉本は評論家としての運命を受け入れたのだ。だから非難したい人が非難すればいいのである。

 ドゥルーズは正しいことを言っている。権力者にも歓びはある。しかし、それは他者の能力行使を制限するという悲しみを伴う。その歓びは、悲しみの歓びである、と。本書もまた、既存の学説の画一性を告発しており、精神分裂病から胎児の原夢に至るまで、いかなるマイノリティの心的世界も排除せず肯定するという点で、『アンチ・オイディプス』と同様、70年代前後の空気から生まれた反権力の書であると私は思う。

 

 

 

「心的現象論序説」 吉本隆明著(その7)

 前回の補足であるが、吉本の了解概念は独特であって、私見ではそれを異質な時間領域の横断として解釈したのだが、抽象的な説明なので具体例で敷衍してみよう。このことについて、吉本自身が次のように説明している。

 

 わたしがいまわたしの<身体>を、かなりよく馴染んできた有機的な自然物としてみるとする。どこそこに傷跡があり、どこそこにあざがあり、どこに疾病があり、どうも胃や頭痛がいつも気にかかるといった内臓感覚を意識させるような<身体>である。このとき、(略)わたしは外界の無機的な自然物をみているのとおなじように、わたしの<身体>をみている。(「心的現象論序説」吉本隆明著 北洋社17頁。以下頁数のみ記す)

 

 私はこの部分を次のように解釈する。吉本はこの事例で、悟性の心的時間性を語ったのだが、それは心的領域の全体性から抽象した局面だけ取りあげているのである。吉本自身、純粋疎外を原生的疎外のベクトル変容として、心的領域を質的差異として捉えていたはずである。したがって、そうした悟性の心的時間性とともに、常に、原生的疎外の生理的時間性も並行している。つまり、「いつも気にかかる内臓感覚」とともに、じぶんの<身体>をあたかも無機的自然物のようにみているのである。もし完全に悟性の心的時間性のみであれば、「傷跡」「あざ」は純粋疎外として一箇の記号になってしまうだろう。それが生きた<身体>の「傷跡」「あざ」であると了解しうるのは、皮膚の下の生理的時間性と悟性の時間性を横断しているからである。逆に皮膚の下の生理的時間性に悟性の時間性が完全に同調してしまうと、現実は皮膚感覚のみで構成された異常な心的世界となるであろう。

 以上が「了解」における複数時間性横断の描像である。すると「何が」横断するのかという問が生じるかもしれないが、そういう問自体が、横断という差異的共存から生じた効果であると考える。あるいは「何が」とは純粋疎外と原生的疎外の差異的共存としての全体性である。そうした全体性を「主体」と呼ぶのは、吉本も躊躇するにちがいない。少なくとも「了解」が主体の能力ではないことは確かである。

 

7 吉本隆明の夢概念

 以上のような了解概念によると、吉本の夢概念の特異性が際立ってくる。流し読みすると吉本は外界から遮断された心的世界を夢として捉えるという、常識的なことを述べているに過ぎないように見える。

 だが、吉本は夢もまた、覚醒時とは異質の「了解」だと述べているのである。

 そしてそれは心的世界の空間性が異質なのだから、覚醒時の了解によって類推してはならないということである。例えば、夢の形像が覚醒時の記憶と似ていたとしても、それは覚醒時の了解がもつ意味とは無関係だというわけである。

 さらにもっとぶっ飛んだ話になるが、吉本は夢をみない眠りもまた、一つの「了解」だとしている。このことから吉本のいう「了解」が表象のみではないことが分かる。

 

 わたしのおおつかみな想定では<入眠>時の心的な領域でも、変容された不完全な自己概念と自己規範を因子として、入眠言語とよぶべきものが成立しうるとかんがえられる。そしてこの入眠言語が、抵抗なく流通しうるならば、夢は形成されずにすむものと仮定する。(219頁)

 

 吉本によると睡眠時の心的世界もまた、覚醒時と同様に時間性と空間性がある。吉本の言語概念は、心的世界の時間性・空間性が規範と概念になったものが言語であるから、人間は睡眠時にも言語を持つのである。吉本はそれを「入眠言語」と定義している。

 引用文で「抵抗なく流通しうる」というのは、覚醒時における時間性と空間性との一次対応に相当するものと思われる。睡眠時の心的世界は覚醒時と異質だから、用語も異なるのであろう。吉本は夢が「形成されずにすむ」状態、つまり夢を見ない睡眠の心的世界もまた入眠言語として位置づけているのである。

 したがって睡眠時においては感覚的受容がないのだから、「抵抗なく流通しうる」入眠言語は何も語らない言語であり、非-表象の言語といえよう。それが形像となる夢は<異常な>入眠言語であり、心的世界の時間性・空間性が<正常>とは別の錯合タイプとなっているのである。正常・異常の用語を回避すれば、非-表象という夢を見ない入眠言語が睡眠時の心的世界として普遍的であり、夢形像の心的領域はその内に包摂されるということになる。(216頁図)

 このように夢を捉えることで、吉本はフロイトのように夢を「充たさるべき願望」に還元することなく、一つの自立した心的世界として把握することに成功している。それはビンズワンガーの意図と類似しているが、ビンズワンガーが夢を現存在の意味として捉えようとしたのに対し、吉本は夢もまた一箇の変容した現存在であると捉え直しているのだ。

 

 いま<わたし>がビルディングの屋上から下の道路を鳥瞰する位置で、小さく往還する車や人人のすがたを夢にみたとする。(略)すると<わたし>の心的な恐怖と<わたし>の夢にあらわれた下の方にみえる道路の往還する車や人々の形像との関係は、形像化されたその風景の空間化度以外の意味する空間性を時間性に、いいかえれば擬似的な了解に転化することによって与えられるということである。(「心的現象論序説」吉本隆明著 北洋社213頁。以下頁数のみ記す)

 

 これまで明らかにしてきた吉本の時間・空間・了解の諸概念を踏まえれば、この引用文が夢の心的世界を時間化度と空間化度の錯合体として捉えたものであり、覚醒時とは異質の結合タイプとしての錯合がいかなる心的世界となるかを記述したものであることが明瞭であろう。吉本の時間・空間概念がどれほど異様であろうとも、このように夢の心的世界まで記述しうるのであれば、そうした諸概念の理論的意義を認めざるを得ないであろう。

 

 夢にとっての<環界>は、<入眠>時の心的な領域そのものであり、夢にとっての<身体>は、覚醒時の心的領域そのものである。そこで<入眠>時の心的な領域と、覚醒時の心的な領域とが<関係づけ>られる条件があるならば、すくなくとも夢は可能性としては形成される。(226頁)

 

 なぜ人は夢を見るのか?という問に対し、吉本ほど具体的に考察した者はいないだろう。フロイトでさえ、「願望」とか「検閲」という用語で夢をそれ自体ではなく内的葛藤劇に置き換えている。吉本はまず、覚醒時と睡眠時とでは心的世界に構造的差異があることを指摘している。つまり覚醒時の心的世界は<外界>と<身体>から疎外されたものだが、睡眠時の心的世界は<入眠時の心的領域>と<覚醒時の心的領域>から疎外されたものである。そして、夢は、覚醒時と睡眠時の二つの心的領域が接触するときに生じると言うのである。

 そして二つの異質な心的世界が<関係づけ>として接触するからこそ、夢の入眠言語は時間性と空間性が歪んで結合するのである。

 このことは夢の世界がどれほど異様であろうとも、それを記憶しているということは、覚醒時の心的領域と関係していることを意味する。

 

 <夢>が<記憶される>(心的なパターンとして現存する)ためには<正夢>でなければならぬ。いいかえれば覚醒時の心的な体験によってなんらかの意味で現実的に裏付けられなければならない。(略)<覚醒時にも覚えている夢>というのは、夢にとっては現象的な矛盾であるが、夢が、いいかえれば<入眠>時の心的な表出が、覚醒時の心的な領域と接触していることを証拠づけている。(233頁)

 

 問題は、そうした接触、<関係づけ>が何を意味するかである。フロイトはそれを抑圧によって失われた過去の記憶、つまり幼児期の<リビドー>の分布としている。具体的な例として吉本は、夢における既視の風景が「母親の生殖器」であるというフロイトの説をとりあげている。

 だが、吉本は幼児にとって観念と行為の区別は未分化なのだから、胎内に存在すること自体が行為となり、存在することが既に体験したことになる、それが既視夢の本質だとしている。つまり関係<項>が何であるかをタダ物論的に捉えることが問題なのではなく、関係それ自体のもつ意味が重要であり、幼児の心的世界を現在の心的世界との異質性として捉えない限り、その意味は見えてこないということである。

 なぜ関係それ自体が重要なのか、それは<夢>が覚醒との関係から生じるからである。したがって関係<項>を重視するフロイトは<夢>を<夢>とは別のものに置き換えているのである。

 吉本は覚醒時の心的領域について、原生的疎外から純粋疎外まで段階的な質的差異があると主張しているが、睡眠時の心的領域にも同様に段階的差異がある。それが原夢・正夢・一般夢である。

 そして各々の段階には、原了解・原関係、固有了解・固有関係、一般了解・一般関係があり、さらに了解と関係は、言語における概念と規範とに対応することになり、覚醒言語と入眠言語が両立するのである。

 かくして吉本は覚醒時と睡眠時の心的了解が質的に異なりつつ、構造として並行関係にあることを示し、フロイトの既視夢は原夢に相当し、象徴関係(婦人帽子-男性器など)は一般夢の解釈可能性に相当するとしている。つまり吉本は夢の心的世界を同質性ではなく、異質な構造として捉えているのである。

 吉本の夢解釈はフロイトと異なり、夢の意味を関係<項>としてのリビドーではなく、関係それ自体として、自己抽象と自己関係の時空性に求めている。さらに解釈が成り立つのは一般夢であると限定している。

 そのことを吉本は具体的に<橋>の夢を事例にして説明している。フロイトによれば<橋>は男性器ということになるが、吉本は<橋>が何であるかによって意味が異なってくるとしている。例えば故郷の古い橋であれば自己抽象の不全であり、都会の橋であれば自己関係の不全としている。吉本によると夢とは入眠言語の異常であるから、夢は何らかの不全を意味するのである。例えば近親者が死んだ夢は、フロイトのように近親者の死を潜在的に願望しているのではなく、他者と1対1の関係付けに障害があることを意味するとしている。そしてその死者が同性か異性であるかは重要ではなく、それが<性>的障害を意味するのは特殊な場合であって、より一般的には、その夢の意味を個体と他の個体との関係障害に拡張しうるとしている。

 

 

 

「心的現象論序説」 吉本隆明著(その6)

 

6 吉本隆明の言語概念

 吉本は体系的説明をしないので常に唐突な印象を受けるのだが、一応、前回までが心的現象の原理論であり、第Ⅴ章以後、その原理論によって言語・夢・心像の本質解明を行ったとみることができるであろう。

 第Ⅴ章は一見、吉本の言語論のような体裁をしているが、あくまで心的現象としてみた限りの言語を論じるものであり、言語それ自体を論じた「言語にとって美とはなにか」とは区別される。

 本章が難解であるのは、吉本が言語を主観内部のものとして論じているのか、客観的な言語を論じているのか分からなくなり、混乱してしまうからである。

 だが、「心的現象としての言語」とは、心に思い浮かべた言語、言い換えれば表象としての言語ではないのであり、時間・空間の異質性によって多元世界となった心的領域における言語であることに留意すれば、難解な本章で吉本が何を言わんとしているかが見えてくるであろう。

 すると「言語にとって美とはなにか」で論じられた「言語」と本書の「心的現象としての言語」との違いは何か? 私見では、本章で扱われている言語は歴史性を捨象したものであり、自己表出・指示表出の歴史的累積性を捨象したものが「自己抽象」「自己関係」ではないかと思う。

 吉本は本章においてさらにラジカルな問い、すなわち言語以前性としての<概念>と<規範>によって、言語を捉え直そうとしている。 吉本は言語について<概念>と<規範>の二つの側面を区別するのだが、これは<意味>と<文法>を心的現象へ独断的に置き換えたものではない。吉本は公共世界から精神病理という異質の世界へ眼を転じることによって、言語を<概念>と<規範>とに区別しうることを発見したのだ。つまり概念構成不全が、精神分裂病における失語症であり、規範不全が躁うつ性の失語であり、発話水準以前で概念と規範が結合したものが、てんかん性の失語であるというわけである。してみると通常の者でも「話しても仕方がない」と思うことが時折あるが、それが常態化すると、てんかん性失語に類似したものとなるのかもしれない。

 この洞察が精神医学としてどこまで有効かは不明だが、少なくとも言語を<概念>と<規範>とに区別することの理論的意義は認められる。

 さらに吉本は言語以前性としての<概念>と<規範>を論じている。

 常識的には受け入れ難いであろう。言語のないところに概念や規範などあるはずがない。そう思うのが普通である。だが、それはやはり公共世界を前提としているからにほかならない。精神病理の異質の世界では、概念不全、規範不全がみられるが、それを不全とみるのは正常者の一方的独断であり、各症状の内部では独自の世界として成立している。精神分裂病者からみると正常者の方が異常なのである。

 とするならば<失語症>の世界もまた言語以前性の<概念>と<規範>によって構成されているのであり、言語とは<概念>と<規範>との一次「同致」であるに過ぎない。吉本はこの部分を展開しないのだが、吉本の理論構想に従うなら、<概念>と<規範>との多様な結合タイプがありうるのであり、それが様々な精神病理における失語症である。つまり<失語症>こそが普遍であり、公共世界の言語はその特殊にすぎない。私たちの言語表現も文学もすべて<失語症>の一部なのだ。吉本はそこまで徹底すべきだった。

 それゆえ、言語以前性としての<概念>と<規範>とは何か、が問いとして重要になる。

 吉本の説明を要約すると<概念>とは、時間の異質性であり、<規範>とは、異質な時間の配列関係としての空間である。

 そのことを吉本は観念奔逸を事例として具体的に説明している。吉本は「入院ですか?」を<入院><です><か>と分解し、<入院>の時間性、<です>の時間性、<か>の時間性が各々異質であることを把握することが、「入院ですか?」の意味了解だとしている。概念構成不全とは、この時間の異質性の把握が不全であるため自己了解に達していないことであり、このため脈絡のない言葉が後続するのである。

 これまで何度も触れてきたように、吉本の時間概念には複数性があり、自然時間・生理時間・意識時間と大別しうることが前提となっている。さらに原生的疎外から純粋疎外まで無段階に異質であるため、その三つの内部でも時間性が細かく区分される。私見では、吉本は「了解」をそうした異質な時間領域の横断として捉えているようだ。よって<入院>の時間性は理性・悟性の時間性に近く、<です>や<か>の時間性は、生理時間、つまり原生的疎外にヨリ近いものとして区別されるのである。

 また、異質性を把握していても、配列関係が不全であると、<入院><です><か>と<入院><か><です>との区別がつかなくなり、それが規範不全になるというわけである。

 本章最後のフッサール批判は、要するにフッサールは現象学的還元によって無前提を装いながら、Aに後続するBという「持続」「記憶」「知覚」が心的時間を生成するという理論モデルを前提としているというものである。これに対し、吉本は心的時間は「持続」「記憶」「知覚」とは無関係に成り立つとしている。

 

 わたしたちは、意識の<時間>と<空間>について語るのに<知覚>的な与件を用いねばならないという現象学的な必要性をみとめない。(「心的現象論序説」吉本隆明著 北洋社205頁。以下頁数のみ記す)

 

 念のため補足しておくが、吉本は「知覚」ではなく「<知覚>的な与件」と言っているのであり、それは現象学的還元を施したあとの<知覚>である。現象学を誤読しているのではない。

 ならば<知覚>的な与件と一切関わりのない意識の時間・空間とは何か?

 吉本は「自己抽象」を時間性、「自己関係」を空間性とするのだが難解である。私見では、吉本は集合論のような描像を持っていたのではないかと推測している。つまり冪集合による集合濃度の高度化が「自己抽象」であり、集合内部の順序構造が「自己関係」に相当するのではないかと思う。それが<概念>と<規範>に繋がるように思われる。もっとも数学は要素概念の内に自然との繋がりを保持しているが、心的世界はその繋がりを切断しているため、数学よりもさらに自由であると、吉本は見ていたようだ。

 

 現在の段階で、抽象(作用)が整序された系をなしうるもっとも高度なものを、数学的な論理の系に認めることができる。(中略)このように、<概念>としてもっとも高度な整序された系とみなされる数論的な系でも、<概念>は自然認知の程度にしたがう。しかし、心的な現象とその<規範>は自然認知の仕方によって直接には左右されない。(187頁)

 

 

「心的現象論序説」 吉本隆明著(その5)

5 吉本隆明の感情概念

  吉本による感情の定義は次のように見かけは単純である。

 

 心的な了解の時間性が空間性として疎外されるような、対象についての心的領域を感情とよぶ。(『心的現象論序説』吉本隆明著 北洋社150頁。以下頁数のみ記す

 

 吉本はあまり体系的に説明しないので、第Ⅳ章で唐突に感情に言及しているように見えるのだが、おそらく前章の関係意識の発生とは逆向きの疎外が<感情>だということであろう。つまり前章では<視えるもの>と<視えないもの>との空間的差異が関係意識として、心的時間を発生させたのだが、今度は逆に心的時間性が空間性として疎外されたものが<感情>だというわけである。もっと単純化して言えば、時間と空間の錯合体を時間として捉えたのが意識であり、空間として捉えたのが感情ということだ。したがって、意識と感情は疎外の方向が逆向きであるだけで、いわば作用・反作用のように不即不離の関係にあるといえる。感情は影のように意識につきまとうのである。

 私見では、吉本のこの感情概念は、ドゥルーズの欲望概念に類似している。ドゥルーズもまた、欲望をアレンジメントとして、空間的配置、すなわち領土化として定義している。つまり欲望とは対象を欲することではなく、対象を中心とする異質の空間をアレンジすることである。プルーストの言うように一人の女性を欲するのではなく、その女性の属する世界を異質のものとしてアレンジするのが欲望である。

 そうした感情による異質空間の構成について、吉本は表立って議論しないのだが、次のように、共同幻想・対幻想・自己幻想を区分するものとして、感情を捉えている。したがって幻想の三類型を感情のアレンジメントとみることができる。

 

 フロイドの弱点は、通俗的にかんがえられれているように、かれが心的な現象をすべて<性>に還元させた点にあるのではない。人間の全幻想と全現実世界におこる<接触>がすべて臨界的であり、したがって共同社会における<接触>と、家族における男女の<性>を基盤とする<接触>と、個体の自己<接触>とをおなじ次元であつかいえないことを洞察しなかった点にある。(163頁)

 

 この引用文はフロイト批判の付け足しのように書かれているが、ここには問いのない答えがある。つまり批判の背後に隠れて見えない問いである。それは共同感情・対人感情・自己感情は何によって区別されるのかという問いであり、その答えが<接触>の類型である。吉本はフロイトを批判しつつ、自分でも気づかぬうちに問いの地平を変えているのだ。

 そして吉本によると感情が異質な空間を構成するのであるから、区別された感情は、区別された幻想空間として共同幻想・対幻想・自己幻想を構成するのである。それゆえ、この引用文は幻想生成論として読み換えることができる。

 吉本はこの<接触>により生じた感情、言い換えれば疎外された空間性がいかなるものか考察を展開しないのだが、これまでみてきたように、時間性と空間性にはそれぞれ度合がある。時間性の度合として、吉本は衝動・情緒・感情・心情・悟性・理性という段階があるとしており、空間性の度合として、触覚・味覚・嗅覚・視覚・聴覚の段階があるとしている。そして、時間性が空間性として疎外されるということは、これらの時間性の各段階が空間性の各段階に疎外されることを意味する。このことは、感情として疎外された空間が一つの構造となることを示している。(本書の初めで、吉本は「感情」を時間性の度合として位置づけているが、それは文脈からみて「了解された感情」という意味であろう)

 したがって「共同社会における<接触>と、家族における男女の<性>を基盤とする<接触>と、個体の自己<接触>」の各類型によって、異なる時間化度が異なる幻想空間を構成するのである。

 以上は本書を離れた思弁に過ぎないので、ここで止めにするが、吉本の理論構想をつきつめると、そのような形で幻想生成論が展開されるはずである。

 本書において、吉本は男女の<性>を基盤にした<接触>が感情の構造を最もあらわにするという、事実として尤もなことを述べるだけであり、それが何故なのかという問いへ深めていない。私見では、おそらく男女の<接触>においては、衝動から理性に至るまでの全段階の時間性が空間化されるからだと思う。これに対し共同社会との<接触>においては、衝動よりも理性の時間性の度合の方が相対的に強いであろう。それが対人感情と共同感情の質的差異となる。

 本章の終わりの方で、吉本は<愛>と<増>との中間に位置する中性の感情を、感情の喪失と捉えないとしている。それは感情の喪失ではなく、愛憎という感情それ自体を再空間化として遠隔化しているというのである。ドゥルーズの再領土化と比較したくなるような興味深い説だが、吉本は自己の理論的発見に夢中になって、悪く言えば「お筆書き」のように思考結果のみを示して、その理由を明示しないことがある。この部分もそうであるが、だからといって無価値ということにはならない。吉本思想は息つく間もなく降りそそぐ着想の渦である。それに敏感となるか否かは読み手次第であり、書物というものは、自分が使えるように使うしかないのだ。

 

「心的現象論序説」 吉本隆明著(その4)

4 吉本隆明の精神分裂病概念

 吉本は時間化度・空間化度を量的差異としていたが、精神分裂病をめぐる考察によって自らその考えを修正しつつあるようだ。やはり時間化度・空間化度にはそれ自体の質的差異がある。もっとも吉本は時間性と空間性を二つの次元へ抽象した限りにおいて量的差異とみていたが、時間性と空間性の錯合において質的差異を認めたのである。ここで吉本が「結合」と言わずに「錯合」と言うのは、カントのように公共世界としての時間・空間の結合を唯一のものとみなさず、無数の結合タイプを前提としているからである。

 

 感官による受容を了解作用とむすびつけてかんがえるとき、いいかえれば<身体>からの疎外された時間化度とのむすびつきをかんがえざるをえないとき、さらに個々の感官作用の空間化度の内部に構造を想定することがひつようである。(略)感官作用の空間化度は、(略)その内部に位相的な構造を想定せざるをえなくなる。このとき空間は異質(heterogen)なものとなる。(略)この空間化度の異質性(Heterogenität)を測る尺度は関係意識の強度である。(「心的現象論序説」吉本隆明著 北洋社129頁。以下頁数のみ記す)

 

 したがって吉本は当初、各々の感官、触覚・味覚・嗅覚・視覚・聴覚の順で空間化度が高度化すると説明していたが、時間化度との錯合においては、個々の感官、例えば嗅覚内部においても空間化度の差異があるとするのである。

 吉本は『アヴェロンの野生児』が特定の対象にのみ異常に鋭い嗅覚をもち、他の対象には鈍い嗅覚しかもっていないことを例としつつ、さらに一般化して動物の嗅覚の空間化度には、食物や性欲対象に対するものと、その他の対象との間に異質性があるとしている。

 私にはこれがドゥルーズとまったく同じことを言っているように思える。ドゥルーズもまたノミや蜘蛛を例として、汗の匂いや巣の振動のみによって世界が構成されていることを示していた。

 つまり専門家が感覚の敏感・鈍感としてみていた事柄を、吉本とドゥルーズはそれは感覚の問題ではなく、空間の異質性だとしているのである。吉本は専門的文献を解釈している素人ではなく、専門家とは次元の異なる目でそれらの文献を見ているのである。

 だが、そもそもなぜ時間と空間は錯合という形で結びつくのか?

 このような根源的な問いは、他の哲学者には生じようがない。彼らにとって現実とは最初から時空の統一であることが公共世界として自明なのだ。

 吉本は諸感覚の中で聴覚と視覚が別格であり、「聴覚と視覚の空間化度だけが、そのままで構造的時間性に転化しうる」(134頁)としている。

 

 <関係>の概念は、かならずしも眼に<視える>ものだけをさすとはかぎらない。心的世界が関与しているかぎり視えない<関係>も含まれる。そして、この視えない<関係>を人間が了解しうるにいたったことには、聴覚がかなりな深さで加担しているようにおもわれる。天空や自然森林の奥から聴えてくる音や叫びが、どんな対象から発せられたか判らないとき、人間はその対象物を空想においてつくりあげた。そして<視えない>ものを<視える>ものにおきなおすすべを意識としてえたとき、人間の<関係>の世界は、急速に拡大し、多様になったとかんがえられる。聴覚と視覚の空間化度が、そのまま時間性として受容されることがありうるのは、このふたつの感官作用が、視えない<関係>概念を人間にみちびくのに、本質的に参加しているからである。(137頁)

 

 たいへん重要な箇所なので引用が長くなったが、要するに聴覚には方向があるとしても空間に浸透しており、そうした聴覚空間を背景として、物陰に潜んでいる猛獣を想像しうるようになると、人間に<視える>ものと<視えない>ものとの関係意識が生じたということだ。だがそうした関係意識が生じると<視えない>ものは猛獣の叫びや天空の雷鳴に限らず、「急速に拡大」する。それを理論的に総称するならば、<視えない>ものとは「原生的疎外」なのだ。それは純粋疎外=現存在において<視えない>のである。意識とは関係であるから、<関係>の発生とは意識の発生でもある。吉本はこの関係=意識、さらには心的時間が<視えない>原生的疎外を<視える>純粋疎外に「おきなおす」ことにより発生したと主張しているのである。

 それが前回引用した「ベクトル(原生的疎外)-ベクトル(純粋疎外)=関係意識」の哲学的含意である。

 そのことがなぜ、「時間性として受容されることがありうる」のか、吉本はその理由までは説明していない。関係意識が生じたのだから、時間性として受容されるのは当然かもしれないが、この部分はハイデッガーの時間論によって補足しうるであろう。つまり「気遣い」とは志向性として関係意識そのものであり、「気遣い」が時間性の根拠となっている。

 ところでハイデッガーもまた現存在の時間性Zeitlichkeitと存在一般の存在時性Temporaritätとを区別していた。『存在と時間』で扱っている時間が心的時間のようにしか思えないのは、そのためである。吉本流に言えば、それは純粋疎外の時間性であり、ハイデッガーが遂に到達しえなかった存在時性とは、原生的疎外の時間性なのだ。吉本にとってそれは到達点ではなく出発点である。ハイデッガーは気遣いを時間性の根拠としているが、吉本は逆であり、存在時性(原生的疎外)と時間性(純粋疎外)との差異が気遣い(関係意識)だとしている。それゆえ吉本の定式をハイデッガー流に書き換えると次の定式となる。

  Temporarität - Zeitlichkeit = Sorge

 こうしてみると人間は最初から精神分裂病なのである。この際、スキゾフレニーとスキゾイドの区別など無視して構わない。人類はみんな同類であり兄弟だ。視覚の空間化度が歪んでおり、それとは異質の聴覚の空間化度に浸透しているのである。精神病理の普遍的枠組として時間と空間との錯合があり、正常者はその錯合の特殊な一例に過ぎない。例えば正常な人間でも音楽が情景を喚起することがある。確かにそれは想像に過ぎないが、想像とは現象学的に還元された視覚でもある。だから音楽が情景を喚起することは純粋疎外として「正常」なのだ。それが想像ではなく、現実の視覚として受容されると「病的」となるのであるが、視覚の空間化度が最初から歪んでいるという点では、正常も異常も変わりはないのである。視覚と聴覚に限らず、すべての感覚が歪んでいるのである。「味を見る」とか「朝陽に匂ふ山桜花」とか、そうした表現が人を安らかな気分にさせるのは、それが純粋疎外としての想像であるからに過ぎない。だが、そうした表現が成り立つことの根源には、やはり歪みが前提としてあることは確かである。

 

 

 

「心的現象論序説」 吉本隆明著(その3)

3 純粋疎外とは何か

 前回、私は説明の便宜上、「<純粋>聴覚」とは現象学的に還元された声だと説明したが、そう説明した理由は、この言葉がデリダのいう内的独白をイメージすると考想化声との違いが分かり易くなるからだ。確かに吉本は純粋疎外を現象学的還元とは別物だとしている。だが、純粋疎外の領域を内側からみる限り、それが現存在に類似していることを吉本も自認している。

 

 ハイデッガーの現存在の概念は、わたしたちの純粋疎外の概念と類似している。しかし、ハイデッガーの現存在は、心的領域としては、あらゆる現象学的な還元によって心的経験流を排除することによって残される現象学的な残余の本質である。しかし、わたしたちの純粋疎外の概念は、原生的疎外からのベクトル変容であり、いまだ、わたしたちは、環界としての現実をも、生理的基盤としての<身体>をもすこしも排除していない。(「心的現象論序説」吉本隆明著 北洋社刊118頁。以下、頁数のみ記す)

 

 吉本が言っていることは、心的現象は生理的過程とは別のものとして自立しているが、生理的基盤を排除していないということである。自立しているが排除していない。これは理論的に支離滅裂ではないか? あたかもハイデッガーを批判するときはフロイトの視点に立って生理的基盤を排除していないと主張し、フロイトを批判するときはハイデッガーの視点に立って「環界としての現実」すなわち現存在としての心的世界がそれ自体で独立した領域をなすと主張しているからだ。それをトランスクリティックなどと言うのは、笑えない冗談である。

 だが、それが支離滅裂に見えるのは、読者が世界の単一性を暗黙の前提としているからにほかならない。カントもハイデッガーも自明の前提として疑わなかったのは、この世界の単一性としての公共世界である。これに対し吉本が「すこしも排除していない」というのは、世界の複数性を主張しているのだ。吉本は公共世界を否定するワルなのである。あるいはドゥルーズと同じように、動物への生成変化を主張しているのだ。原生的疎外とは動物世界でもある。そのように解釈して初めて、「錯合」とか「ベクトル変容」の意味が明瞭となる。

 「錯合」は複数の要素を示し、「ベクトル変容」は方向を示している。それは何と何か? 言うまでもなく時間と空間である。

 純粋疎外が原生的疎外からのベクトル変容であるということは、時間化度と空間化度が原生的疎外とは異なっているということであり、両者は異質の世界として共存しているのである。人間の心的世界とは、動物世界と現存在との差異的共存である。だからこそ吉本は精神病理の本質を解明できるのだ。

 だが、よく考えてみよう。吉本は既に時間化度・空間化度として時空概念の異質性に到達していたはずだ。それならば、なぜあえて「純粋疎外」という概念を創出しなければならなかったのか?

 吉本もまた自己の理論的発見を誤解していたフシがある。それは時間化度・空間化度を質的差異ではなく量的差異としていたからである。そして質的差異を考慮するために「純粋疎外」を必要としたようだ。

 

 心的現象の質的な差異、たとえば精神医学でいう分裂病や躁うつ病やてんかん病はただ時間化度、空間化度の量的な差異とその錯合構造にしか還元されないことは、いままでみてきたとおりだからである。ここで<質>的な差異を感じさせるものがあるとすれば、ただ時間化度と空間化度の錯合構造という概念だけだが、この概念がなぜ<質>的な差異を意味しうるかについて、わたしたちはまだどんな根拠も与えていない。(103頁)

 

 かくして「時間化度と空間化度の錯合構造という概念」として「純粋疎外」に到達するのである。だが、私のみるところ、この「純粋疎外」は正常と異常を識別するための時空の座標変換である。つまり原生的疎外から座標変換された後の「純粋疎外」においては、変換後の座標を原-座標として現存在の世界が成立するのである。吉本は多くの部分を精神医学の文献に依拠しているので、そうした文献を解読するうえで、正常と異常の二大分割を尊重せざるを得なかったのであろう。そのため、あたかも「純粋疎外」を現存在としての正常な世界であるかのように位置づけたのである。

 

 わたしたちの純粋疎外の心的領域における<時-空>性は、あるばあい固有時間性と固有空間性を原ベクトルとして想定することが必要であるようにおもわれる。このあるばあいとは、心的領域における<異常>または<病的>という概念をかんがえざるをえないときである。(117頁。なお、固有時間性・固有空間性とは、純粋疎外の時間性・空間性である)

 

 しかし吉本の「度合」についての説明や様々な症例解釈を参照すると、時間化度と空間化度とは単なる量的差異ではなく、それ自体が異質なのであり、複数の時間・空間による多元世界の層状的共存である。時間度ではなく時間<化>度である。吉本は相当ぶっ飛んだことを自分でも気づかずに主張しているのである。時間化度と空間化度の錯合による多元世界の繁茂はいつも既に始まっているのだ。別に「純粋疎外」を持ち出さなくても、原生的疎外はそれ自体が質的差異でひしめいている世界である。正常とはこの錯合パターンの一つに過ぎない。引用文もまた錯合後の「固有時間性と固有空間性を原ベクトルとして想定」するなら、その「ばあい」そこに異常心理と対立する正常者の心的世界が成り立つと言っているにすぎないのである。それは差異の荒れ狂う原生的疎外の上に浮かんだ静謐な同一性の世界である。だが、その「原ベクトル」が絶対に正常だとは言えない。ただ、確率分布の平均的人間がそこに位置しているに過ぎない。経営者が好んで使いたがる「ベクトルを揃える」という言葉はある意味、正鵠を得ているといえよう。

 吉本は原生的疎外と純粋疎外との関係を次のように定式化している。

 

 ベクトル(原生的疎外)-ベクトル(純粋疎外)=関係意識  (141頁)

 

 一見、難解な式だが、要するに原生的疎外と純粋疎外との差が関係意識だということである。吉本が自認するように純粋疎外は現存在に類似しているのだから、逆に原生的疎外はフロイト的世界に類似していると言えよう。そして吉本は関係意識をハイデッガーのように現存在内部の指示連関として捉えず、現存在とフロイト的リビドーの差異として捉えている。

 このことは言い換えれば、関係意識の根源には意識と非-意識、あるいは狂気との対比があるということのようだ。ハイデッガーの指示連関には、それ自体の根拠がないのであり、熊野純彦訳『存在と時間』を読んで初めて気づいたのだが、根拠らしきものとして最終的に到達する概念は、<適所を得させること>Das Bewendenlassenという謎めいた動詞の中性名詞化である。私見ではこのDas Bewendenlassenは、現存在の外部へ通じる穴であり、その外部を原生的疎外とするならば、吉本とハイデッガーはその限りで一致するのではないかと推測している。もちろんハイデッガーの局所性を捉える吉本の方がはるかに視野が広いことは言うまでもない。

 

 

「心的現象論序説」 吉本隆明著(その2)

2 吉本隆明の空間概念

 ハイデッガーは『存在と時間』においてデカルトの空間概念を批判しているが、吉本の空間概念によれば、ハイデッガーもまた一面的であることが分かる。

 吉本流に言えば、ハイデッガーの空間概念は純粋疎外にまで高められた心的領域においてのみ成立しうる空間に過ぎないのであり、原生的疎外であるエスに近接した心的領域の空間性を説明できないのである。吉本は現存在が生理過程との関係を喪失していると外在的に批判するだけでなく、そのことの哲学的含意を空間概念の新たな創出によって明らかにしたのである。

 それはデカルト的な等質空間やハイデッガーの空間概念を単に否定するのではなく、それらを一部として含む「空間」の多数性・異質性を主張するものである。

 おそらく吉本はベルクソンの空間概念の異質性から着想を得たのであろう。もっともベルクソンの空間概念もまた等質・異質の二元論だが、吉本はその空間概念の異質性を人間の心的領域のすべての段階について度合の差異として適用したのだ。つまり人間が動物の一員である以上、心的経験の部分領域では人間が動物になることもありうるのである。吉本は決して空間の等質性を否定しているのではない。だが、それは本書142頁の図が明示しているように、空間性の度合の一つの領域において成立するのであり、「二枚貝」のように「一端で閉じられた」下部近辺の領域では、動物と同じような異質空間である。つまり、吉本の空間概念は、すべての哲学者の空間概念を特殊概念として包摂しうる超空間である。

 吉本はしばしば身体からの疎外が時間性に対応し、環界からの疎外が空間性に対応すると述べているが、それは古い疎外論でもなければ、身体論を展開しようとしているのでもない。吉本のいう「時間性」とはフロイト批判であり、「空間性」とはハイデッガー批判である。

 吉本の優位性は明らかである。本書を読むと、フロイトもハイデッガーも繊細さが欠けていることが分かる。フロイトにおいては意識の時間とエスの無時間の二元的対立しかない。ハイデッガーにおいては現存在の空間性は生理過程から切り離され、それとは無関係なものとして、高く孤立している。両者とも、いささか単調であり、そのような粗雑な概念では、現実の精神病理への対応などできるわけがないのだ。フロイトは神経症と精神病を区別するだけで精一杯であり、ハイデッガーの時空概念では精神病理現象を分類することも不可能である。ところが吉本の時空概念は、様々な精神病理のマッピングを可能とするものとなっている。(本書99頁)異常心理の解明に役立つのは、その時空概念内部に異質性があるからにほかならない。

 吉本は「空間化度」の違いを触覚・味覚・嗅覚・視覚・聴覚に対応させているので、流し読みすると、精神医学に影響されて生理的意味での感覚論を展開しているようにみえる。だが吉本のいう「生理過程」とか「身体からの疎外」とはリビドーのことであり、それは時間性に関係するのだ。触覚の空間化度と聴覚の空間化度とが異なるという主張の標的は現存在である。生理的感覚ではない。そして精神病理現象を現存在の歪みとして捉えているのだ。

 

 もしも、わたしたちの知覚作用において、あらゆる感官相互の連合や想起作用や想像作用を排除して、固有の感官による受容だけを想定するならば、それぞれの感官による感情作用は、それぞれに固有の空間化度をもっており、この空間化度は、生理体としての<身体>の時間化度とむすびついて知覚受容をなすことが了解されよう。これが、原生的疎外の心的な領域における感覚の空間化度の一次対応の本質である。(「心的現象論序説」吉本隆明著 北洋社112頁。以下頁数のみ記す)

 

 たとえハイデッガーがどれだけ時間を存在の地平として重視しようとも、それは表象された時間であり、現存在が生理過程と無関係に独立している限り、現実界における誕生も死もないのである。それゆえハイデッガーの現存在は時間なき空間論であるといえよう。逆にフロイトは空間なきリビドーの時間論であるといえる。例えばフロイトは精神分裂病をリビドーの自己への固着としてしか捉えていないため、精神分裂病の内的世界を捉え損なっている。吉本の凄さは空間と時間が不可分であることを逆手にとって、フロイトとハイデッガーを批判的に綜合していることである。それもカントのように時空の結合を自明の前提とするのではない。空間と時間の内部異質性により、両者は異化結合することもありうるのである。カントが空間と時間の結合を疑いもしなかったのは、カントが正常者の世界のみ考察対象としていたからにほかならない。だが吉本にとってはそれは一次対応として特殊な結合であるに過ぎないのだ。

 吉本の精神病理の捉え方のどこが凄いのかと言えば、それを表象として捉えていないということである。自分とは隔絶した異世界として捉えている。それだけでなく、そのことを理論の言葉で説明しきっていることだ。これに匹敵しうるのはフーコーの『狂気の歴史』ぐらいであるが、フーコーでさえ、いくら頑張ってみても哲学内部の捉え方であり、精神医学と通底しうるものではない。本書は単なる哲学的表白ではなく、具体的に精神病理を捉えるうえでの指針を様々な事例により提供している。その中で印象深いのは「考想化声」に関するものであり、吉本の時間・空間概念の特徴がよく現れている。

 

 考想化声は、じぶんの思考が音声となってじぶんに聴えるという現象をさしている。この現象はさきにのべた聴覚の本質によってかんがえれば、じぶんが聴きとるということが、じぶんの思考を外延的に空間化して聴覚に達せしめることを意味している。(中略)考想化声において主要なことは、じぶんの思考の振動とおなじようにじぶんの<純粋>聴覚が共振するかいなかということとはべつに、じぶんの思考が<純粋>聴覚にとって外延的空間として受容されうるかどうかに本質が存在している。(121頁)

 

 吉本は「考想化声」を妄想の症例として片付けていない。症例分類は表象でしかないのである。吉本は「考想化声」の内的世界に踏み込んで、その体験がどういうものかを示しているのだ。「じぶんの思考を外延的に空間化」するということは比喩ではなく、文字通り自分が自分にとって異世界になるということである。それがどういう体験なのか理論的描像を与えている。ここで<純粋>聴覚というのは、現象学的に還元した声に相当するものと思われる。「じぶんの思考の振動とおなじようにじぶんの<純粋>聴覚が共振する」というのは、デリダのいう「自分が話すことを-聴く」内的独白と同じであり、正常者も黙読や考え事の際に生じることだ。その時は、思考という時間性と<純粋>聴覚の空間性が共振同調しているのであり、吉本流にいえば時間と空間が一次結合しているのである。これが正常者の心的状態である。それとは異なった別の結合、すなわち思考の時間化度と聴覚の空間化度とが異化結合したときに、聴覚にとって思考が外延的対象となるというわけである。吉本にとって「考想化声」は単なる妄想ではなく、時間・空間の異化結合を実証するものであり、正常者の心的世界(黙読、内的独白等)の方が結合タイプの特殊例に過ぎないのである。この引用文は、正常者の内的独白と「考想化声」とが隣り合っていることを示している。

 このことはカントの洞察、すなわち自己にとっては自己が現象であり物自体ではないという洞察を思わせるものがあるが、カントの言う「現象としての自己」は等質の時間・空間形式における現象である。それは自己の思考が対象とする時間・空間と同一形式であるから、自己と「現象としての自己」がたとえ異なっていても、鏡に写った自己と同様に同一と認知しうるのだ。ところが「考想化声」においては、「現象としての自己」が自己の属する時間・空間とは異なった世界に属している。だから、それは他者の声として聞こえるのである。

 こうしてみるとカントは狂気の一歩手前まで考察を進めながら、正常者の一次結合としての心的世界に踏みとどまったとみることができる。吉本はその心的世界を横断したのだ。

 精神分裂病はフロイトのようにリビドーの自己への固着として片付けてよいものではなく、それ自体に正常者とは異なる内的世界がある。その世界を捉えない限り、逆に正常者の心的世界の本質解明も不可能である。フランス現代思想もまたアルトー以来、そのことに気付き、それを思考の糧としてきた。ビンズワンガーもその内的世界を否定的だが察知している。それが「現存在の消耗、現存在実現の退却」(91頁)だ。そうした思考の一つの到達点が『アンチ・オイディプス』であるなら、本書もまた、それとは異なった道で精神分裂病の哲学的意味を捉えたものであるといえよう。時間化度・空間化度は精神分裂病者の内的世界を包摂した概念であるから、問題の性質上、難解であるのは当然である。