アンチピリンの経哲日記

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「共同幻想論」 吉本隆明著(その2)

<禁制論>

 今日の事後的視点で本章を読むと、既に自己幻想、対幻想、共同幻想の三つが出揃っていて、それらの関係を説明するために「禁制」を取りあげているように見える。

 だが本書が書かれた時点に立ってみると、吉本は、「禁制」を取りあげることによって、これら三つの幻想を発見したとみるべきであろう。吉本はフロイトを批判することによって、「対幻想」をはじめとする三つの幻想の位相構造を発見したのだ。

 したがって冒頭のフロイト批判は禁制概念を仕上げるための単なる思いつきではなく、吉本の幻想論の中核であるように思われる。言い換えれば幻想領域が表象と非-表象とをともに含む構造であることを、フロイト批判によって発見したのである。

 フロイトによると「禁制」には恐怖と願望の両価性があり、未開種族の近親相姦には強い願望があるが、同時にそれは共同体の破壊に繋がるから禁止の掟が生じたということである。それに対し吉本は、そうしたことは未開人の「心の劇」としてありうるが、近親婚禁止の制度としてはありえないとする。

 

 この<性>的な劇を<制度>のような共同世界にまでむすびつけようとするときには疑問がある。そこで人間の<性>的な劇の世界は、個人と他の個人とが出遇う世界に属するもので、単に個体に固有な世界ではないとかんがえるべきである。(21頁)

 

 つまり、吉本はフロイトが対幻想にのみ当てはまる精神分析を共同社会に拡張して適用したことを批判しているのだが、それはフロイトの<リビドー>概念が、あるときは個人の心的世界、あるときは<性>的な経験や行為の結果として、その区別が自覚的にならず無造作に混同されているからだとしている。

 だが、なぜ、そもそもフロイトにそうした混同が生じたのか?

 吉本は「心の劇」という言葉で、自ら気づくことなく、既にその応えを書き留めている。

「心の劇」とは表象である。そして吉本のいう「制度」とは非-表象である。だから、吉本のフロイト批判は、表象(心の劇)でもって非-表象(制度)を根拠付けることはできないと言い換えることができる。つまり、吉本はドゥルーズ・ガタリに先駆けて、精神分析が表象の劇に還元されたものであることを見抜いていたのである。たとえ吉本のフロイト理解に難点があるとしても、問題の核心を把握していた眼力には驚くべきである。

 タイトルは「禁制論」だが、禁制を主題として既存の学説を批判しているのではない。吉本はここで未聞の新しい禁制概念を創出しているのである。

 この新しい禁制概念によって、三つの幻想領域が形を表してくる。だから本書の冒頭に掲げられたのであろう。個体幻想に関係する禁制は、自己の自己に対する禁制として強迫神経症として現れる。また共同幻想に関係する禁制は、黙契として現れる。これらはそれぞれ対幻想のみに関わるフロイト的な禁制とは別の禁制概念である。

 そして、この新しい禁制概念によって三つの幻想領域が初めて確定されているのだから、ここは少し立ち止まって考えてみよう。吉本のフロイト批判は心の劇を制度と取り違えているということであった。だがこの批判は吉本自身の禁制概念にも当てはまるのではないか? 吉本が注目するのは、「禁制」における心の両価性(恐怖と願望)である。

 

 この未開人の心の両価性は、たかだか王権や王制にたいする<虚偽>や<順応>や<崇拝>や<無関心>などの意識としてあらわれるに過ぎないのである。(23頁)

 

 「たかだか・・・意識としてあらわれるに過ぎない」と言い、そのような意識としてのあらわれ(つまり表象)によって制度を根拠づけるのは誤りだというのであるから、吉本の禁制概念は、意識に現れないもの、「心の劇」ではないもの、いいかえれば非-表象でなければならないはずである。果たして、そうなっているか?

 

 ある事象が、(略)禁制の対象であるためには、(略)対象を対象として措定する意識が個体のなかになければならない。(略)対象は怖れでも崇拝でも、そのふたつでもいいが、かれの意識によって、対象は過小にか過大にか歪められてしまっている。

(23頁)

 

 これが吉本の禁制概念だが、不明瞭で分かりにくい。特に「対象として措定する意識」とか、怖れ、崇拝となると、吉本の禁制概念もまた、フロイトと同じように「心の劇」ではないかと疑ってしまう。だが、注意深く読むと、「対象は過小にか過大にか歪められてしまっている」というように、意識した結果として両価性を捉えていることが分かる。つまり歪められて意識された表象ではなく、歪められた現実が問題となっている。

 これは深読みによる吉本擁護ではない。吉本が取りあげた禁制の例示をみれば明らかである。吉本は自己幻想に関係する禁制として、自己にとって自己が禁制の対象である状態、すなわち「強迫神経症」を例示している。この病例の場合、確かに意識は自己を「対象として措定している」側面もあるだろうが、その自己が歪められているのである。これは明らかに表象だけに限定されるものではなく、表象を超えた病理構造である。また共同幻想に関係する禁制として「黙契」を例示している。これもまた後にみるように意識が措定している黙契の内容と、その現実的関係にはズレがあり、明らかに表象を超えたものを含んでいる。

 つまり吉本はフロイトのように、恐怖と願望が意識としてあらわれた表象によって禁制を根拠づけるのではなく、病理構造、性的構造、社会的構造という一連の非-表象に基づいて自己幻想、対幻想、共同幻想に関係する三つの禁制を根拠づけているのである。

 そうした理論的な流れが充分説明されていないので、唐突に、強迫神経症や黙契が出てくるように思われるのだが、それらはフロイトに対する表象批判として取りあげられていることに留意すべきである。

 もちろん吉本は共同幻想の禁制と黙契とを区別している。だが両者は混然一体となっており、「<黙契>は習俗をつくるが<禁制>は幻想の権力をつくる」(24頁)として、その両者がからまった状態を知るために、吉本は「遠野物語」を参照するのである。

 本書が一世を風靡したのは、ここである。通常の発想であれば「古事記」「日本書紀」を参照するところ、あえて最初に柳田民俗学を参照するところが注目され、その後も先見性があると評価されている。だが、なぜ柳田民俗学か?

 それは文脈から明らかだが、宗教的な禁制は、大陸から輸入された国家観を既に反映したものであり、本書の主題である「国家が成立する以前」(序)の共同幻想の解明に適していないからである。

 つまり国家以前性としての共同幻想の探求、これが習俗としての黙契に着目する理由であり、遠野物語に着目する理由である。そうした理論的地平のもとに遠野物語が選択されたのであり、決して単に共同幻想の一事例として任意に参照されたのではない。

 そして習俗としての「黙契」が共同体の「禁制」と「からまったまま混融している」のは、吉本の頭の中が混融しているのではなく、国家以前性としての様々な共同幻想が、国家へ向かい一つに収束する方向性があることを暗示しているのである。

 遠野物語に対する吉本の読みは驚くべきものがある。

 吉本は最初に「死者」と「他界」とを区別している。「死者」は宗教理念と関係するが、「他界」はそうではないというのだ。ここに既に宗教的禁制と習俗的黙契の混融した状態が指摘されている。したがって吉本が「他界」と言うとき、それは国家以前性の共同幻想を示しているのである。だが、それは問題提起として触れただけで、本章ではなく後章の「他界論」で詳説されることになる。

 それにしても本書を読みながら感じるのは、なぜ共同幻想をテーマとしている本書で、入眠幻覚や類てんかん、既視などの病理現象が頻繁に取りあげられるのかという疑問である。それらは共同幻想とは一見無関係に思われる。だが吉本によると、それらの<病理現象>が異常であるのは、あくまで共同幻想成立後の現代社会においてであって、既に成立した共同幻想と自己幻想とが逆立しているから異常に見えるのである。ところが共同幻想の初源においては、それらは<共有された幻覚>として正常なのである。

 遠野物語から吉本が抽出するのは、山人畏怖であるが、その初源には狩人の入眠幻覚があるとしている。だが、この入眠幻覚は現代人にとっては異常であるが、当時は狩人に共有された入眠幻覚であり、共通体験として語られうるものであり、正常なものとされている。なぜなら、まだ自己幻想が共同幻想から分離していないので、共同幻想と対立する異常とはみられないからである。

 <入眠幻覚>というと、現代の私たちはすぐに自己幻想と思い込んでしまうが、ここで吉本が<入眠幻覚>を取りあげているのは、自己幻想としての禁制ではなく、共同幻想の禁制の前段階である「黙契」に関連してである。つまり、吉本は<入眠幻覚>を単なる個人の病理現象とは見ていない。それは歴史的に変遷を経て仕上げられた概念であり、社会構造と無関係ではないものとして捉えられている。勘違いしてはならないが、吉本は遠野物語を解釈するうえで便利のいい道具として精神病理学における<入眠幻覚>概念を使っているのではない。そうではなく、<入眠幻覚>が原-民話だと言っているのである。入眠幻覚は共有されて初源の共同幻想となる。だが、どこで共同幻想は自己幻想と対立し逆立するようになるのか?

 それは、村落共同体から離れることへの恐怖としてである。ここにおいて単なる狩人の疲労による幻覚が、共同体から出離してはならないという共同幻想の<禁制>へと発展するのである。吉本はそのことを遠野物語により、①山人への恐怖、②山人との出会いが夢か現か分からない恐怖、③山人の住む世界への恐怖、というように発展段階として抽出している。そしてこのような発展は、明らかに「恐怖」が主体となっているのではなく、共同体を維持するという非-表象としての「黙契」が、表象としての恐怖を生み出しているのである。つまり村人は黙契を受け入れつつ、入眠幻覚にあらわれる恐怖として抑圧されているのである。それは共同幻想と自己幻想の初源の対立であり、共同幻想に滲入された自己幻想でもある。

 このことは共同体の禁制が、心の劇という表象によって生じたものではなく、社会構造と無縁ではない入眠幻覚=原-民話という病理構造によるものであることを示している。