アンチピリンの経哲日記

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「心的現象論序説」 吉本隆明著(その1)

 本書は吉本の時間・空間論として読み換えることが可能であり、またそうした視点で読まない限り意味不明のものとなるだろう。

 なぜなら、本書で扱われている時間・空間は、通常の意味での時間・空間ではないのであり、吉本独自の概念であるからだ。

 それは一言でいえば、時間・空間を疎外として捉えることである。疎外論が流行らなくなったのは、田舎者が上京してもあまり疎外を感じなくなったのが一因かもしれないが、「ぶらさがり世代」の私としては「団塊の世代」が声高に論じていた疎外論からも疎外されていたという実感がある。

 本書を読めば、吉本の疎外論がそういう「古い奴でござんす」とは全く異なることが分かる。時間・空間概念の根本的変革なしに疎外を論じることは、単なる疎外の表象論でしかないからだ。

 無前提の哲学にも暗黙の前提がある。それは生と死の拒否である。哲学とは、誰に産んでもらったのか知らない忘恩の子であり、すでに死んでいることを知らない死霊でもある。それは心的現象を生理過程から独立したものとして扱う限り不可避なのだ。ハイデッガーの死の考察ですら、それは死の表象にすぎない。ブランショのハイデッガー批判はそのことにつきる。だが吉本の現存在分析批判は、もっと広いパースペクティブに立つものである。

 今日、「唯物論」が復活しつつあるが、それは表象の根底に無意識、言語、構造などの非-表象の威力があることが発見されたことによる。だから、現代的意味での「唯物論」というかまあ、柄谷行人や蓮實重彦の言っている「唯物論」とは、人間の脱中心化をめぐる思考を総称したものだ。だが、そうした表象批判にも限界が見えつつあるようだ。なぜなら、それは批判に留まる限り、なんら積極性を持ちえないからだ。

 世界思想における本書の意義は、吉本によって初めて哲学に生と死が導入されたということであり、唯物論が可能となったということ、これである。

 

1 吉本隆明の時間概念

 まず最初に吉本は多くの哲学者と同様、心的現象をそれ自体として扱おうとする。心的現象と<自然過程>との関係については、ベルクソンをはじめ、もうウンザリするほど大同小異の議論が尽くされている。吉本もまた単に精神分析と現存在分析のいいとこ取りをした折衷論を展開しているように見える。

 その折衷論を図式的に要約すると、自然的時間の進行方向に向う限り精神分析が妥当するが、時間を逆方向に遡及することはできない。その遡及できない範囲では現存在分析が妥当するというものである。子供は親から産まれてきたはずだが、親とは無関係の独立した心的世界を持つ。その心的世界が「現存在」というわけだ。

 そうしてみると、一見、常識的な折衷論のようだが、はたしてそうか?

 吉本の着眼点は、フロイトの精神分析を哲学への挑戦として捉えたことである。フロイトがエスの<無時間>を発見したということは、哲学的な時間とは別種の時間がありうるということだ。するとエスにヨリ近い情動の「時間」尺度は、エスからヨリ遠い理性の「時間」尺度とは異なっているのではないか? 吉本はそのことを正面切って論じないのだが、吉本のいう「時間化度」とは、明らかにエスからの疎外の度合であり、時間それ自体の異質性の度合である。吉本は「時間性」を座標軸として図示しているので、つい勘違いしてしまうのだが、そこで示されている時間性にはデカルト平面のような等質性がないことに留意しなければならない。

 

 古典哲学が<衝動>とか<情緒>とか<感情>とか<心情>とか<理性>とか<悟性>とかよんでいるものを、身体から疎外された心的な領域とみなすばあい、それらは心的時間の度合とみなされるということである。たとえば<衝動>とか<本能>とかよばれる心的な領域は、有機的自然に固有な時間と対応させることができる。<情緒>とか<心情>とかよばれるものは、もはや有機的自然の時間性と対応させることができないし、そこでは時間化度はより抽象され、この時間化度の抽象性は<理性>とか<悟性>とよばれるものでは、もっと高い。(吉本隆明著「心的現象論序説」北洋社 53頁)

 

 「有機的自然の時間性と対応させることができない」とはカント的時間からの訣別の宣言であり、時間の多数性、さらに言えば多世界の宣言である。この記述をよく読むと、吉本は心的領域(「衝動」~「理性」)の多数性を前提としており、各々の心的領域の時間尺度が他と異なっていると主張しているのである。描像としては座標空間を構成する等質的時間ではなく、各々が異なった時間尺度をもつ世界(つまり心的領域)が層状に積み重なっているという描像が得られる。「時間化度」とは「理性」界の時間尺度と「衝動」界の時間尺度が異なっていること、それもフロイトのように意識的<時間>とエス的<無時間>との二元論ではなく、衝動-情緒-感情-心情-悟性-理性の各段階に区分された層状異質時間次元の「度合」を示しているのである。

 吉本の主張の理論的含意をつきつめてみると、「理性」からみた「衝動」とは理性の時間尺度に変換された表象としての「衝動」であって、異なる時間次元に属する現実の衝動を直接知ることはできないのである。それどころか、「情緒」や「心情」に至るまで、すべて「理性」の時間尺度に変換された表象である。そして精神病理現象とは変換ではなく、時間次元の同調なのだ。それは理性が表象としての衝動を知るのではなく、理性が衝動それ自体に時間尺度を合わせることである。「狐憑き」はそのことを自らの心を変様させることによって随意に行う、というか、原因において自由な行為として行うのである。

 したがって精神病理現象は、何ら特別な現象ではなく、「情緒」や「心情」に固着し続け、「理性」との階層的区別がなくなるならば誰でも容易に生じうるのであって、正常者と病者との間には程度の差しかないということになる。疎外の様態は個体により様々であって、正常者とは確率分布の中央近辺に位置して平均的趣味を持つ平均的な人間に過ぎない。

 だが、同時に程度の差は時間尺度の異なる世界として絶対的な差異でもある。このことにより、個人が単独者であることも、精神病者の心的世界にまったく共通性が見いだせないことも同時に説明がつく。つまり吉本とともに共同現存在を拒否し、精神病理の普遍的現象を現存在の異質性に求めるならば、誰でも「21世紀の精神異常者」になりうるのだ。