アンチピリンの経哲日記

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「心的現象論序説」 吉本隆明著(その2)

2 吉本隆明の空間概念

 ハイデッガーは『存在と時間』においてデカルトの空間概念を批判しているが、吉本の空間概念によれば、ハイデッガーもまた一面的であることが分かる。

 吉本流に言えば、ハイデッガーの空間概念は純粋疎外にまで高められた心的領域においてのみ成立しうる空間に過ぎないのであり、原生的疎外であるエスに近接した心的領域の空間性を説明できないのである。吉本は現存在が生理過程との関係を喪失していると外在的に批判するだけでなく、そのことの哲学的含意を空間概念の新たな創出によって明らかにしたのである。

 それはデカルト的な等質空間やハイデッガーの空間概念を単に否定するのではなく、それらを一部として含む「空間」の多数性・異質性を主張するものである。

 おそらく吉本はベルクソンの空間概念の異質性から着想を得たのであろう。もっともベルクソンの空間概念もまた等質・異質の二元論だが、吉本はその空間概念の異質性を人間の心的領域のすべての段階について度合の差異として適用したのだ。つまり人間が動物の一員である以上、心的経験の部分領域では人間が動物になることもありうるのである。吉本は決して空間の等質性を否定しているのではない。だが、それは本書142頁の図が明示しているように、空間性の度合の一つの領域において成立するのであり、「二枚貝」のように「一端で閉じられた」下部近辺の領域では、動物と同じような異質空間である。つまり、吉本の空間概念は、すべての哲学者の空間概念を特殊概念として包摂しうる超空間である。

 吉本はしばしば身体からの疎外が時間性に対応し、環界からの疎外が空間性に対応すると述べているが、それは古い疎外論でもなければ、身体論を展開しようとしているのでもない。吉本のいう「時間性」とはフロイト批判であり、「空間性」とはハイデッガー批判である。

 吉本の優位性は明らかである。本書を読むと、フロイトもハイデッガーも繊細さが欠けていることが分かる。フロイトにおいては意識の時間とエスの無時間の二元的対立しかない。ハイデッガーにおいては現存在の空間性は生理過程から切り離され、それとは無関係なものとして、高く孤立している。両者とも、いささか単調であり、そのような粗雑な概念では、現実の精神病理への対応などできるわけがないのだ。フロイトは神経症と精神病を区別するだけで精一杯であり、ハイデッガーの時空概念では精神病理現象を分類することも不可能である。ところが吉本の時空概念は、様々な精神病理のマッピングを可能とするものとなっている。(本書99頁)異常心理の解明に役立つのは、その時空概念内部に異質性があるからにほかならない。

 吉本は「空間化度」の違いを触覚・味覚・嗅覚・視覚・聴覚に対応させているので、流し読みすると、精神医学に影響されて生理的意味での感覚論を展開しているようにみえる。だが吉本のいう「生理過程」とか「身体からの疎外」とはリビドーのことであり、それは時間性に関係するのだ。触覚の空間化度と聴覚の空間化度とが異なるという主張の標的は現存在である。生理的感覚ではない。そして精神病理現象を現存在の歪みとして捉えているのだ。

 

 もしも、わたしたちの知覚作用において、あらゆる感官相互の連合や想起作用や想像作用を排除して、固有の感官による受容だけを想定するならば、それぞれの感官による感情作用は、それぞれに固有の空間化度をもっており、この空間化度は、生理体としての<身体>の時間化度とむすびついて知覚受容をなすことが了解されよう。これが、原生的疎外の心的な領域における感覚の空間化度の一次対応の本質である。(「心的現象論序説」吉本隆明著 北洋社112頁。以下頁数のみ記す)

 

 たとえハイデッガーがどれだけ時間を存在の地平として重視しようとも、それは表象された時間であり、現存在が生理過程と無関係に独立している限り、現実界における誕生も死もないのである。それゆえハイデッガーの現存在は時間なき空間論であるといえよう。逆にフロイトは空間なきリビドーの時間論であるといえる。例えばフロイトは精神分裂病をリビドーの自己への固着としてしか捉えていないため、精神分裂病の内的世界を捉え損なっている。吉本の凄さは空間と時間が不可分であることを逆手にとって、フロイトとハイデッガーを批判的に綜合していることである。それもカントのように時空の結合を自明の前提とするのではない。空間と時間の内部異質性により、両者は異化結合することもありうるのである。カントが空間と時間の結合を疑いもしなかったのは、カントが正常者の世界のみ考察対象としていたからにほかならない。だが吉本にとってはそれは一次対応として特殊な結合であるに過ぎないのだ。

 吉本の精神病理の捉え方のどこが凄いのかと言えば、それを表象として捉えていないということである。自分とは隔絶した異世界として捉えている。それだけでなく、そのことを理論の言葉で説明しきっていることだ。これに匹敵しうるのはフーコーの『狂気の歴史』ぐらいであるが、フーコーでさえ、いくら頑張ってみても哲学内部の捉え方であり、精神医学と通底しうるものではない。本書は単なる哲学的表白ではなく、具体的に精神病理を捉えるうえでの指針を様々な事例により提供している。その中で印象深いのは「考想化声」に関するものであり、吉本の時間・空間概念の特徴がよく現れている。

 

 考想化声は、じぶんの思考が音声となってじぶんに聴えるという現象をさしている。この現象はさきにのべた聴覚の本質によってかんがえれば、じぶんが聴きとるということが、じぶんの思考を外延的に空間化して聴覚に達せしめることを意味している。(中略)考想化声において主要なことは、じぶんの思考の振動とおなじようにじぶんの<純粋>聴覚が共振するかいなかということとはべつに、じぶんの思考が<純粋>聴覚にとって外延的空間として受容されうるかどうかに本質が存在している。(121頁)

 

 吉本は「考想化声」を妄想の症例として片付けていない。症例分類は表象でしかないのである。吉本は「考想化声」の内的世界に踏み込んで、その体験がどういうものかを示しているのだ。「じぶんの思考を外延的に空間化」するということは比喩ではなく、文字通り自分が自分にとって異世界になるということである。それがどういう体験なのか理論的描像を与えている。ここで<純粋>聴覚というのは、現象学的に還元した声に相当するものと思われる。「じぶんの思考の振動とおなじようにじぶんの<純粋>聴覚が共振する」というのは、デリダのいう「自分が話すことを-聴く」内的独白と同じであり、正常者も黙読や考え事の際に生じることだ。その時は、思考という時間性と<純粋>聴覚の空間性が共振同調しているのであり、吉本流にいえば時間と空間が一次結合しているのである。これが正常者の心的状態である。それとは異なった別の結合、すなわち思考の時間化度と聴覚の空間化度とが異化結合したときに、聴覚にとって思考が外延的対象となるというわけである。吉本にとって「考想化声」は単なる妄想ではなく、時間・空間の異化結合を実証するものであり、正常者の心的世界(黙読、内的独白等)の方が結合タイプの特殊例に過ぎないのである。この引用文は、正常者の内的独白と「考想化声」とが隣り合っていることを示している。

 このことはカントの洞察、すなわち自己にとっては自己が現象であり物自体ではないという洞察を思わせるものがあるが、カントの言う「現象としての自己」は等質の時間・空間形式における現象である。それは自己の思考が対象とする時間・空間と同一形式であるから、自己と「現象としての自己」がたとえ異なっていても、鏡に写った自己と同様に同一と認知しうるのだ。ところが「考想化声」においては、「現象としての自己」が自己の属する時間・空間とは異なった世界に属している。だから、それは他者の声として聞こえるのである。

 こうしてみるとカントは狂気の一歩手前まで考察を進めながら、正常者の一次結合としての心的世界に踏みとどまったとみることができる。吉本はその心的世界を横断したのだ。

 精神分裂病はフロイトのようにリビドーの自己への固着として片付けてよいものではなく、それ自体に正常者とは異なる内的世界がある。その世界を捉えない限り、逆に正常者の心的世界の本質解明も不可能である。フランス現代思想もまたアルトー以来、そのことに気付き、それを思考の糧としてきた。ビンズワンガーもその内的世界を否定的だが察知している。それが「現存在の消耗、現存在実現の退却」(91頁)だ。そうした思考の一つの到達点が『アンチ・オイディプス』であるなら、本書もまた、それとは異なった道で精神分裂病の哲学的意味を捉えたものであるといえよう。時間化度・空間化度は精神分裂病者の内的世界を包摂した概念であるから、問題の性質上、難解であるのは当然である。